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多数決が多数派の暴力にならないための根拠

あたしの後期の授業に「多数決は民主的か」というクイズからはじまる1コマがあります。大学院生のときからお世話になった&その後はいっしょに研究会を運営させていただいたK先生の力作、「革命期マサチューセッツにおける既得権と多数決」(『常識のアメリカ・歴史のアメリカ』木鐸社、1993年)に依拠したものですが、この論文には非常に印象的な一節があります。

利益を異にする少数者の集まりこそが社会の現実そのものなのであり、全体の利益のために各利益が自己抑制する必要がないどころか、 自己主張を展開し対立し合うことこそが全体の利益を作り上げてゆくのであった。各利益を明確にして、 縮図のなかに反映させることで社会全体の様子が理解できるのである(p. 63)。

強大な公権力の行使を多数決でもって正統化するしかないとしても、 多数派の利益をしてそのまま全体の利益であると一方的に押しつけてゆけば、公共の福祉は大いに損なわれてしまう(p. 64)。

自己の利益をある程度抽象化できる大きな場を共和国として、そこの人民が統治責任を担うのでない限り、…… 公私の利益が対立し公益は私益が分捕るパンの山となってしまう。……多数をとるために色々な利益と折衝し、妥協してゆく中で、 関係者間のみならず公共への配慮も生じてくるはずであった(pp. 67-8)。

こうして熱く語られた公共圏、公共性の問題を学生にもつたえているですが、 いまのあたしには学生さん以上にこれをきかせてやりたい奴らがべつにいたりします。あるいは、このような論説も。

……〔鎌倉〕幕府は「統治」に真摯に取り組んでいると、ひろく認められただろうか。それは……「公平性」 であったろう、と私は考える。一定の原則を示し、それを高く掲げて是は是、非は非とする。仮に武士階層の不利益になる事象も、 原則に照らして受容する。自らを否定してみせて初めて「全国の統治」が現実味を帯びてくるのではないか(本郷和人「霜月騒動再考」 『史学雑誌』112編12号、2003年、p. 4)。

過去の人びとの営みに照らして、あたしがいま目の当たりにしているのは、 数の暴力の様式でしか多数決を行使できず、「民間では……」を錦の御旗にかかげる愚かな人びとです。まさに、「ヴァイス」 (悪徳と万力と○○)という通称こそがふさわしい。こういう人たちには公正性のかけらもありません。また、大学という機関に所属しながらも、 公的な教育(public education)を担う自負もないのです。私学であろうと、公立であろうと、大学法人であろうと、 学校での教育は私企業の社内教育などではなく、公共の福祉に資するものであり、ひろく公衆を対象とする以上、公教育です。 このような大前提さえ、顧みられていない (`_´)

少数派の負け惜しみといわれればそれまでですけど、かれらのしていることは、生き残りのために、中・ 長期的な見通しもないまま、競争力がいまだけはあると思われているもの=「われわれ」に特化し、原理主義的に徹底しようとすることであって、 そうした組織に魅力や色気など醸しだせるはずもなく、実態としてはやせ衰え、崩壊してゆく過程しかありえないように思われます。 あたしの授業を聞きにおいで、といいたくなる今日このごろです。

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