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2005年の講義終了

昨年とおなじく、本日の非常勤の授業「歴史と社会」で年内の授業を終了しました。これまでに講義したことのないネタ= 「公開処刑はなぜ減少したか/廃止されたか」をためしてみました。完成度はいま二つくらい。通説であるところの2点、つまり、

1.裁判官をはじめとする司法のエリート、 あるいは群衆のなかにいる教区レヴェルの中堅社会層が、暴力を忌避するようになった。あるいは、 生命をもつ者にたいする態度の認識論的な断絶が生じた。

2.処刑が執行される場の治安維持にたいして関心が増大した。たとえば、 1783年にニューゲイト監獄からタイバン処刑場への練り行列(市中ひきまわし)は廃止され、 監獄の外壁に設置された絞首台をつかうようになった。

は説明できるですが、今回はこれにもう一つの要素、R・シューメイカの強調する評判のつくられかたの変化をいれてみました。 さらし刑や笞刑に顕著な、犯罪者の評判に決定的な破壊をもたらす公開処刑は、地域共同体のなかで信望・ 名誉が確立される様式がかわることで意味をなさなくなる、という理解です。群衆がどれだけ加辱のパフォーマンスをとりおこなおうと、 その効果がなければ、群衆を構成する人びとはパフォーマンスじたいに興味をうしなっていったのではないか……。

じっさいに人びとが公開処刑を無視して、街頭をとおりすぎてしまったことをしめす史料はあります。ただ、 群衆の側の変化をうまくあらわしているのがみつからない。かれらが mob や rabble から populace と記述されるようになり(これは「改革の人」フランシス・プレイスの表現)、やや受動的なっているのはシューメイカが論じているです。ただ、 街頭が恥辱のパフォーマンスの場から、いわば「無菌化」されてゆく要因が説得的でない。結局、 印刷物に書かれた評判が重視されるようになるという展望があるだけ。でも、井戸端会議やうわさ話、 そういうオーラルなコミュニケーションのなかで評判がつくられる部分は、現在でもありうるでしょう。すくなくとも全否定はできない以上、 この議論はくるしいなぁと思う。

ていうか、こうやって生半可な理解を説明しようとしているあたしが、いちばんくるしかったりします。Thank God, It's Friday (TGIF) (^_^;)

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