日本語を読み書きする力
妻さんが息子2人にたいしてシール+ニンジン作戦で本を読ませています。おかげで、とくに小6の下の子は『西遊記』『幕末』(これはシマリョーの作品です)『セロ弾きのゴーシュ』『坊ちゃん』と読破、ゆっくりと、しかし着実に、読む力はあがってきました。問題は… …、やはり作文の力です。書くことそのものはキライでなく、(へたくそな)絵入りの作品をはじめとして、父への手紙などは喜々として書いてくれるのに、ある種のパターンのくり返しや「何でそーなるの?」といいたくなる内容しかないです。ましてや、句読点など気にもとめないし、「です・ます」と「である」の混在も、逆接・順接の誤用も、がっかりしてしまうほど目についてしまいます。
息子2人は典型的な「ゆとり教育」世代です。総合学習がすべてわるいとは思いません。小中学校にプレゼン機器がととのえられたり、PCのキーボードを前にしても物怖じせずにネット検索できたり、自分で Yahoo の学習ページをみつけたり、確実にスキルは向上していると思います。また、中1の息子のように、とても楽しそうに授業をわがものにしている姿は、以前の、ひとりの教師 対 多数の生徒にみられた構図とは本質的にちがいます。コミュニケーションのもちかたが根本的にちがうのです。
こうした変化はうけいれるとして、ただやはり気になるのは、「日本語を書く力がない」こと。これは、アタシら教師の常套句でもあります。いつぞやのある会議でも、「日本語でさえロクなものが書けないのに、ましてや英語だなんて……」という発言がありました。「すべて英語(または外国語)で授業したらどうか」となされた提案への反論です。学生時代、とくに大学院生のころを思いだしますと、エラソーなことはいえないですが、レポートや答案でロクなものに出会うのは奇跡にちかい確率かもしれません。毎年、100〜200本、非常勤もくわえれば300〜400本ほどのレポート類を採点します。ですが、これまで、論旨、構成、日本語のいずれも合格点に達した=まちがいなく「A」だったのは、たった2人です。【ちなみに、「A」の2人のうち、4年前に卒業した方は「アーミーナイフのような切れ味の論理性」がありました。昨年に卒業した方は「抽象性と具体性が幸せなハーモニを奏でる」書き手でした。】 傾向的に三つのうちでとくにどれがダメなのでなく、論旨が足りないのは構成も甘く、日本語が不正確・不適当になります。結局のところ、日本語を書く力とは、レトリックや語彙の豊富さよりも、愚直なくらいにことばの正確さへこだわるセンスがあるかどうか、ではないでしょうか。
大学生になってさえ、日本語の文章が書けない人は、「作文」の時間をどのようにすごしてきたか、どのような教師に小学校で出会ったか、誰にむけて書いたか、etc... で不幸がかさなってきたのかもしれません。そもそも作文では、たとえば水泳で息つぎをおそわるように句読点を習わせる、形式面でのきびしさをもつ必要があります。ですから、『朝日新聞』夕刊の「炎の作文塾」まではいかなくとも、作文を担当する低学年の教師にはちゃんと本文から朱入れをしてほしい。作文の最後におざなりな感想を書きいれるのでなく、あたかも校正原稿のように、文章本体に朱で書きこんでほしい。感想を書いてもかまわないけれど、それは個別具体的な内容にそくしたものであるべきだと思います。
一種の循環論法になってしまうけれど、大学でしっかりと勉強せず、まっとうな文章を書けない学生が教師になる。【この場合、勉強とは教科にかかわるもので、教職にかかわるものではありません。文科省は、学級崩壊などから後者を重視するようですけれど、生徒は勉強していない教師を瞬時に直観でみぬきます。そして、軽蔑します(中学時代のあたしがそうだった)。】その教師がまた生徒に作文をおしえるのですからねぇ。
もうひとつ、ぜひとも生徒におしえてほしいのは、内容として、優等生の作文を書く必要がないということです。推理小説で人を殺したり、ギャグやパロディやパスティーシュだってかまわない。楽しいもの、こわいもの、悲しいもの、うれしいものを書いてよいのです。作文は道徳の時間でなく、想像力の時間なのですから。
【授業】卒業研究の口述試験の時間割を決定 → コース助手の方へエクセル・ファイルで報告。
【授業】卒論の査読のつづき。
【PC実習室運用】機器更新の見積書の写しを受領。
【教務】コースのゼミ分けの発表日についてコース助手の方と相談。
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