フランス人(?)ポール・ロレイン
西川杉子さんからいただいた「フロンティアのプロテスタントたち―近世バルト海地方の宗派的ネットワーク」大津留厚(編)『中央ヨーロッパの可能性』(昭和堂)や古谷大輔さんのウェブログ・エントリを読みながら、近世ヨーロッパのプロテスタント・ネットワークを考えていました。トランスナショナルあるいはスープラナショナルな人とモノのつながりは、小世界の秩序形成をえがくあたしとは縁がうすいと思っていたですが……、
いかにも愚かやった!
その史料をつかってしばしば語ってきたポール・ロレイン(Paul Lorrain)その人が、フランス出身の(たぶん)ユグノーでした。
かれは1701年から、ロンドンのシティにあった刑事犯収容監獄ニューゲイトの教誨師/監獄付き牧師(the Ordinary of Newgate)になります。それ以前は、イングランド海軍大臣初代サンドウィチ伯爵の主席書記官にしてロイァル・ソサイアティ会員(FRS)、長大な暗号日記で知られるサミュエル・ピープスの書記・翻訳・筆耕係を1678年からつとめていました。そのピープスが記すところによれば、ロレインの一家は父も母もフランスで著名なプロテスタントであり、それゆえに迫害をうけたといいます。フォンテーヌブロー勅令(プロテスタントに信仰の自由を保障してきたナント勅令を廃した勅令)の発布は1685年ですから、ピープスの記述にあるとおり、それより前にフランスを脱出したことになります。一族のなかにはオランダにおちついた者もいました。この出自はじつはロレインの出版していた『牧師の談』(死刑囚が最後の2,3週間をニューゲイトですごすあいだにロレインが聞き書きした、かれらかの女らの伝記。これは18世紀はじめのロンドンでベストセラーともいえる売れゆきを示していた)に、すこしだけ色彩をくわえます。というのも、死刑囚のなかには当然のことながらイングランドやブリテン以外の出身者もいるわけで、そうした者たちの語りをフランス語で聞いて書いたりしているのです。あるいは、カトリックである者にさえ、それなりの寛容を示し、フランス語による最後の祈りをその宗派の司牧とあげさせた場面もあります。
そうだよね。ロレインをしらべはじめたころ、フランス語の著作を英訳した業績や名字がロレーヌの英語綴りだって気にしていたじゃないですか。忘れちゃってましたね。プロテスタント・ネットワークをささえた民間公共団体の一つ、キリスト教知識普及協会(SPCK)の通信会員であったことも。
……このような国家や君主のレヴェルによるプロテスタントの国際的な連帯は、まず第一に、コスモポリタンに結びあう、民間ネットワークの存在ぬきには可能ではなかった。いいかえれば、近世のプロテスタント国際主義は、国家の枠組みにははまりきれない、より広域的で多様なネットワークが前提となったのである。(西川、p. 50.)
SPCK は……その主な活動として、イングランド内の慈善学校や救護院・ワークハウスの支援、教理問答や説教集などを初めとする宗教的冊子の出版・配付〔ママ〕、教区教会付属図書室の充実化などが知られているが、同時にイングランド内外のローマ・カトリックの諸活動に対抗するために、バルト海のダンツィヒから地中海のリヴォルノにおよぶ情報ネットワークをつくりあげている。ローマ・カトリックが優勢な地域のプロテスタント支援をおこなうために、必要に応じては、スパイも送りこんだのであった。(同、p. 58.)
昔のべつの仕事を思いだしますと、フリート債務者監獄の囚人の履歴を追跡していたころには、囚人でありながらフランスにワインの買いつけにでかけ、さらに借財をおって帰ってきた人物がいました。ジョージ1世の暗殺をくわだてた徒弟シェパードは、成功の暁にはイタリア・ウルビーノへ逃亡する算段をたてています。あるいはジェイムズ・オゥグルソープは、もちろんグランド・ツアーも経験していますが、兄弟姉妹の在所はフランス・サンジェルマンの亡命宮廷でした。18世紀のロンドンに登場する人物たちは、想像以上にコズモポリタンで(たぶん)自由な人びとだったのです。
あぁ、あたしは忘却の帝王か……。
【授業】卒業研究の修正版と反省・補足レポートを受領。全員が提出です (*^^)v
【授業】卒論の製本について業者とうちあわせ。
【院HP作成】賃金の執行について書類のコピーを受領。
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