« 境目の風景 | Main | おぞい »

1783年

ふと思いたって、2年前の夏にすこしだけ史料をさがしてみた題材を考えています。それは1783年のことです。

アメリカ独立革命の戦争が勃発したこの年、じつはロンドンで1571年いらい継続されてきた一つの慣行がおわりました。刑事犯収容監獄ニューゲイトから約4キロほど離れたタイバン刑場まで、江戸時代の日本でいうなら市中ひきまわしにあたる死刑囚の練り行列です。これ以降、1868年に公開処刑が廃止されて監獄内での非公開刑になるまで、死刑囚は、ニューゲイト監獄の外側、債務者囚人用の扉口にそのたびごとに設置される落とし戸のついた処刑台で最期をむかえるようになりました。1783年の『ジェントルマンズ・マガジン』は、図入りでこのあたらしい司法実践を掲載しています。

何が疑問かというと、ロンドンとはいえ、シティからはやや離れたところにあった(じっさいに歩いた経験からすると、所要時間は1時間強)刑場を、なぜわざわざニューゲイト監獄というシティの境界線上の施設へもってきたか、なんです。死刑囚の練り行列が騒動をひきおこしたから? 特別任務の治安官を派遣する経費を節約する? ニューゲイトのほうがよほど人があつまりやすいし(1820年、現実にケイト街の謀反人の処刑がなされたときの群衆の数は10万人とつたえられている!)、あつまったらやはり治安維持部隊は出動させなければならないでしょう。逆効果じゃないですか。う~ん、う~ん、意図がまるっきりわからない (^_^;)

というわけで、わからない問題の答えをさがそうとしているわけです。いくつかヒントはあって、タイバン=ハイドパーク周辺の不動産開発ぐあいとか、治安維持部隊の充実とか、公開処刑の効果にかんする認識の変化とか、考えてみたいと思います。いやいや、ニューゲイト監獄は処刑場でもあった、となぜかいまごろになって新鮮な再確認してしまいました。ついでに書いときますと、その敷地にはいま Central Criminal Court があり、てっぺんにジャスティスの女神像がそびえています。監獄・処刑場・裁判所……、おどろおどろしい(?)場所です。


【教務】コース世話人の先生からリストアップを要請された担当科目について、学務主幹から資料をいただく。
【教務】同上。一覧表を PDF ファイルで、コース世話人の先生へ送付する。
【PC実習室運用】パスワードを忘れた学生さんに対応。

|

« 境目の風景 | Main | おぞい »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 1783年:

« 境目の風景 | Main | おぞい »