現状への違和感
先月に読書した本のなかに、羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)があります。あとがきで退路を断ったと語られているように、爽快な読後感をおぼえましたし、また著者の浩瀚な知識と研鑽、議論のつみかさねにうなってしまったのですが――それゆえ、金曜日のシンポジウムがいまいち楽しくなかったのかもしれません――、おしえていただいたことの一つに、中学校や高校で「世界史」のような科目をもっている国は、世界で稀であるという事実があります(今日の『朝日新聞』夕刊で山内昌之さんも、おなじ趣旨のことを書いていました)。日本の高校生にはより多様なアイデンティティを獲得できる機会があたえられているはずですよね。
ところで学部生や大学院生のころはしばしば、酒を飲みながら、タバコの煙をくゆらせながら、うだうだとコーヒーを飲みながら、“なんでおまえは外国史なんかやってんだ”なんておたがいにつるしあげることがありました。日本人なら日本史だろ!というのはとても安易ですが、しかし、説得力のないわけではないこともない(何重否定の文でしょうか?)わけで、返答に窮するときも。ヨコのものをタテにしてるだけと、東洋史の先生にしばかれたことも(涙)。
あれから20年前後の歳月がすぎているわけですけど、正直な話、いまだにこれという答えはないです。ただ、今年度になって「イギリスと日本」という講義をもつようになり、『日英交流史』(東京大学出版会)、『特命全権大使米欧回覧実記』『文学評論』(岩波文庫)、『英国をみる』(リブロポート)などなどを再読して、やはり、久米邦武や漱石・夏目金之助のかまえみたいなもの、劣等複合の消極的な反応かもしれないけれど、「覚めた目」で「比較考究の対象」として外国をみる日本の知識人というのに、共感をおぼえる自分を意識しています。
おなじく学部生、大学院生のころは、“それをやることにどういう意味があるんだ”とはげしく問うてくれる兄貴分がいました。いまのあたしには仕事の意味ということになるでしょうか。自分のどこかでイギリス史をやることがあたりまえになっちゃっているのは、危険かも。つぎにむけて、静かに考えてみたい年末です。
【書類】総務課前のメールボックスにて、書店からの宅配便を受領。
【書類】同上。持参したカッターナイフで開封して納品書をとりだし、産学連携スタッフのデスクで検収手続きをうける。
【書類】同上。図書館へ、科研費の備品費で購入した図書のあつかいについて問いあわせ。
【書類】同上。支払い依頼書を作成し、見積書・納品書・請求書とともに産学連携スタッフの方へ提出。
【書類】同上。科研費の備品費で購入した図書のあつかいについて、産学連携スタッフの方へ問いあわせ。
→ 図書館に登録すると貸出する人がでてくる可能性があるので、科研費の購入の場合は、研究期間が終了するまで購入者のもとに保管するとのこと。
【教務】行方不明になっている回覧物、来年度の時間割・開講科目一覧の捜索。
【教務】同上。回覧済みの先生方をたずねること7人目で発見 → 至急の回覧をお願いする。
【授業】「歴史と社会」「イギリスと日本」のレポート/試験要項(案)を作成。
【授業】明日の合同ゼミで使用する教室の予約を確認。
【授業】同上。工事が入っていたので、管理係の方に電話で確認。
【授業】同上。講義室にてプロジェクタのうつりぐあいを確認。
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