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公開処刑論

この場ではあまり書いたことがありませんけれど、あたしが関心をもっているのは過去の社会における犯罪者の処遇、なかんずく処刑の問題です。18世紀のイングランドのばあい、大きくわけますと、死刑・流刑・さらし刑・笞刑・罰金刑などがありました。このうち、数的に大きかったのは流刑です。1718年に成立した犯罪者移送法により、刑法史上でほぼはじめて死刑につぐ、安定した刑罰が確立しました。アメリカ独立戦争のさなかの1770年代なかばまで5万人ともいわれる流刑囚が北アメリカに送られましたし、アメリカ独立後もあらたな流刑地がもとめられたことからも、流刑という刑罰の重要性が想像できます。ちなみに、17世紀なかばの三王国戦争期/ピューリタン革命期にはすでに、流刑のプロジェクトが存在していました。

ただし、現代との比較で顕著なことは、やはり、死刑・さらし刑・笞刑という公開の刑罰でしょう。さらし刑や笞刑はちゃんとしらべたことがないので、はっきりとしたことはいえません。多少とも史料を見ている死刑、それもロンドンでおこなわれたものにかぎっていえば、通常はオールド・ベイリの年間の開廷回数とおなじ8回の処刑日が存在しました。あたしの誕生日のころ(9月下旬)はちょうど開廷期から2週間くらいあとにあたり、処刑日になることが多かったようです。1783年までは市中ひきまわしの行列があり、死刑囚は荷車に乗せられ、ニューゲトからタイバンまで数キロの道のりを2時間以上もかけてひかれてゆきました。83年からあとはニューゲト監獄前が処刑場となり、中世都市ロンドンの西端、近世以降のロンドンではほぼ中心で処刑が見られるようになります。

かなり端折りますが、このニューゲト監獄前の処刑は、タイバンとおなじく、見物人の行状が好ましくなく、抑止効果を発揮できないと非難されました。さらし刑・笞刑も交通にたいする支障や暴力にたいするまなざしの変化などから、非公開がすすみます。死刑の非公開化は1869年、これ以降はニューゲト監獄内で執行されるようになりました。現代では、死刑そのものが1969年(?)から実施されていません。

というのが、処刑の非公開化の流れです。ところが、この議論にはメディア、犯罪報道、報道陣による処刑の立ち会いといったものが欠けています。いま、誰もが利用できるようになっている『オールド・ベイリ裁判録』がなぜ出版されたのかを考えると、公開であることこそがさばきの正当性を保証する、さばきには説明責任がある、といった、かのジョン・ウィルクスの主張が重要になってきそうです。公開の死刑は物理的にはたしかに非公開化されましたが、しかし、メディアによってその裁判から、執行から、評価までよりひろい人びとに公開されているのではないか、と思えるです。

さて、どうしたものか。もうちょっと考えてみます。

【会議】カリキュラム・入試改革委員会 18:00~20:45
【PC実習室運用】後援会予算の使途について、メーリングリストで提案する。

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