いかに → いかほど
過剰に支配の言説になってしまいがちなイメージ論は、楽しくないし、オイラにはイタすぎます。国書が日本にとどけられ、「おふぶりたんや國ふらんず國ゑらんだ國これ三ヶ国之帝王」と訳されていても、そのとおりに日本の幕府役人は理解してはいなかったっしょ。だって、当の「ゑらんだ國」の商館もありますものね。風説書はたしか1640年代からですけど。こういう支配の言説を相対化するヴェクトルがないと――それが、いわゆる民衆文化でなければならないという必要はまったくありません――、イメージが展開してゆくダイナミクスもでてこない気がします。
いろいろな意味で申し訳なく思いますけれど、器用なつくり、としかいえないです。ごめんなさい。
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