「不可」をつける答案
オイラが大学生であったころ、何の根拠もありませんが、おそらく日本の大学では教養課程と専門課程が分かれているところが多かったのではないかと思います。そして、出身校では1年の前期から順にI・II・III・IV期と名づけられていて、2年の後期から一部の学部でおこなわれる専門課程の講義に出席できる仕組みになっていました。四つに分けられた時期区分から、「IV期生(よんきせい)」という独特の名前で呼ばれつつ、各専攻(オイラのばあいは「西洋史学専攻」です)に仮のかたちではあっても所属することになり、歓迎会などもやってもらいます。
はじめて師匠の講義をうけたのは、このIV期生のときでした。ノートはいまでも保管してあります。試験問題は「授業でふれた論点について論ぜよ」というもので、あたえられた特定の課題はなく、とても面食らいました。また、なんとこれも初体験でしたが、参考文献を明記すること、という条件もついていました。それでも、試験中であったか、試験直前の講義の最後であったか、「ぼくはいままで、まったくおなじ答えを書いた答案以外は落としたことはない」と明言されたので、とにかく自力でやれるところまでやろうと、下宿にこもって『近代世界と民衆運動』を読みかえし、下書きをつくってのぞんだ記憶があります。いまでもおぼえているそのときのタイトルは、「産業革命における主体性について」でした。簡単にいえば、通説的に、政治的上昇の機会のないプロテスタント非国教徒ゆえの、経済的な営利追求をいいたかったですが、タイトルといい、分量の少なさといい、内容の浅薄なことといい、思い出したくありません (#^_^#) \(^^:;)...
それでも、自力でやったことだけはたしかでした。おかげで単位をいただけた \(^o^)/
自力でやってみる、準備してのぞむ、論じる、というのは、やろうと意識しなければできません。そういう経験をできたのはありがたいことでした。ですから、1992年に教師になってからこの方、できるかぎり、自分の講義の試験やレポートでこうした課題をだすようにつとめてきました。残念ながら師匠ほど寛容ではないものですから、落とさないつもりでも、落としたことはありますが、AプラスからFまでの10段階(A+,A,A-,B+,B,B-,C+,C,C-,D,F)で評価をつけながら、コメントはきびしく、されど評価はやさしくしてきたつもりです。たとえば、Fでも、講義のときの反応ややりとりを確認して合格させたときもありました。
しかしながら、今期の試験はほんとうに困りました。いちばんの原因は百科事典、とくに Wikipedia の多さです。絶対にだめなわけではありませんが、百科事典は参考文献とはいえないとアタシは考えます。それじたいは、参考文献を探すための地図のようなものにすぎず、答案やレポートに記述する典拠をもとめるのであれば、事典の記述の土台となっているものをあたらなければなりません。何より、ほんとうにそうか、を問いつめてゆくのが、大学でする勉強でしょう。おまけに、出版物の百科事典や専門事典とは異なり、Wikipedia には署名がありません。それゆえに信頼度が高いという言説のあることも知っていますけれど、無記名では責任の所在が曖昧になります。
こうした注意はさんざんしてきたつもりですし、たとえば、おなじネット上でも、たとえば、こちらやこちらなどに百科事典の使い方について書かれています。なのに、ほかの文献にあたることなく、あたかもそれを自分の見解のごとく、百科事典の記述を並べてゆくというのはどうやって評価できるでしょうか。準備してきてはいますが、それはウェブページを印刷してくるだけみたい。
自力でやった答案に「不可」はつけたくありません。つかないような課題を出しているつもりでもあります。ただし、自力でやったのが、抜粋や書写をしただけで、こちらの「つもり」を逆手にとるような答案には、意図の有無にかかわらず残念ながら消えてもらうしかないです。
おさらばえ。
【授業】「イギリスと日本」の採点と成績評価。
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