イギリス史研究会第23回例会のご案内
研究会の幹事からいただいたメールを引用します。なお、趣旨説明と報告用紙は「続きを読む」をご覧くださいまし。
イギリス史研究会第23回目の例会を、下記の要領で開催いたします。ご多忙中とは存じますが、何卒ご出席賜りますようお願いいたします。今回は、前川一郎氏(創価大学)を中心とする研究グループによるシンポジウム形式での開催です。開始時間が従来と違いますのでご注意ください。第24回目の例会開催は、2011年10月(報告者:岩間俊彦氏)を予定しています。そちらの方も奮ってご参加下さい。第24回例会の詳細については、追ってご案内させていただきます。
記
日時 7月9日(土)午前11時 ~ 午後6時(途中、休憩あり)
場所 青山学院大学 ガウチャーホール 5階 第13会議室
キャンパス内地図
http://www.aoyama.ac.jp/other/map/aoyama.html
キャンパスへのアクセス
http://www.aoyama.ac.jp/other/access/aoyama.html
<テーマ>
イギリス帝国の解体とアフリカの低開発
<報告者>
前川一郎氏(創価大学)、溝辺泰雄氏(明治大学)、眞城百華氏(津田塾大学)、山口育人氏(帝京短期大学)、木谷名都子氏(名古屋市立大学)
シンポジウムの趣旨説明と各報告の要旨は添付ファイルを参照
世話役 平田雅博(青山学院大学)・坂下史(東京女子大学)
連絡先: 東京女子大学 現代教養学部
【趣旨説明】
前川一郎(創価大学)
本セッションは、2010~11年度創価大学次世代共同研究プロジェクト「アフリカ諸国の脱植民地化と経済成長過程の比較歴史学的研究」をもとにしている。その主たる目的は、タイトルにあるとおり、アフリカ諸国の脱植民地化と経済成長の因果関係の歴史的背景・構造的特質を考察することにある。
「東アジアの奇跡」とアフリカの低開発のコントラストを目撃した今日の開発経済学や政治経済学は、1970 年代以降に「南北問題」が「南南問題」へと変容する道筋を分けたのは、所与の途上国が自らを取り囲む対外的経済関係において、一定の互恵的状況ともいうべき関係をいかに作り出すことができたか、そのうえで植民地経済的従属関係をどこまで克服し得たかというところによると説く。われわれは、歴史学研究に従事する立場から、こうした問題をより中長期的かつ広域的に捉えており、そこから新興独立国と(旧宗主国側が主導権を握る)国際政治経済のあいだに相互補完的complementary な関係が存在したのかどうか、独立期アフリカに存在したとすればそれはいかなるものであったのか、存在しなかったとすればそれはなぜか、という問いを立てた。そしてこれらの問いをめぐって、それぞれの関心に基づき検討を進めてきた。
このように、われわれの試みはいわゆる従属論的・南北思想的20世紀史像の再考につながる大きなテーマでもあり、すべてを論じ尽くすことはできない。われわれは当面、途上国が国内外の関係に対して発揮した対応能力state competence と対外要因external (economic) relationsそのものに関して、以下のように三つの論点に絞ることにした。
(1)途上国の国内政治経済状況が規定する国家の対応能力についての研究。これはさらに(a)国内利害集団が要求する利益配分を含む中央政府の管理能力と、(b)下記の対外的経済関係への対応能力に分けられる。溝辺が(a)に重点をおき西アフリカ(ガーナ)の事例を、眞城が(b)の側面を中心に東アフリカ(エチオピア)について検討した。
(2)国内状況の背景を構成する国際政治経済についての研究。この点については前川が、イギリスの戦後対アフリカ政策の軸をなすものとして、政府開発援助政策の展開を検討した。そのうえで山口が、問題を国際政治経済の文脈に広げて、とりわけスターリング・エリアの展開について論じた。
(3)これらのアフリカの事例を相対化する比較史として、木谷が1930 年代のインドの状況を検討した。インドとアフリカのあいだには、植民地主義的状況において30〜40 年のタイムラグがあるといわれる。インドにおけるイギリスの植民地統治のあり方が数年を経てアフリカに再現されるという経験的事実もある。
以下の各報告要旨にあるとおり、本セッションにおいては、こうした問題関心のもとに二年間にわたって続けてきた共同研究の成果の一端をご報告させて頂き、諸賢からさまざまご教示を賜りたいと願っている。
【第1報告】
前川一郎(創価大学)「イギリス政府開発援助政策と脱植民地化」
本報告の目的は、第二次世界大戦後に本格化したイギリスの政府開発援助政策が、イギリス帝国の解体過程でどのように展開し、そこでいかなる役割を果たしたのかを明らかにすることにある。アトリー労働党政権のもとで始まった「植民地開発」政策は、スターリング・エリアの展開に寄り添うかたちで、途上国に対するイギリスのコミットメントのありかたを規定した。途上国のほうも、独立前後にかけて、そうしたイギリスの援助資金を原資にして、自らの開発政策を起動させる。1960年代以降、脱植民地化が本格化し、スターリング・エリアの意議に大きな変化がもたらされるのに伴い、そのような援助政策の内容も大きく変わり、独立期アフリカの開発は大いに翻弄される。本報告では、このように初発の段階から、途上国の開発の現実ではなく、あくまでもスターリング・エリアの展開に伴って行われたイギリスの開発援助政策=脱植民地化戦略を検討することによって、独立期アフリカを外部から規定していた国際政治経済を明らかにしたい。
【第2報告】
溝辺泰雄(明治大学)「アフリカ諸国の脱植民地化と経済成長過程の比較歴史学的研究——独立期西アフリカ・ガーナの事例から」
西アフリカのギニア湾岸に位置するガーナ共和国は、サハラ以南アフリカで最初に独立を果たした国として知られる。その独立を導いたクワメ・ンクルマ(Kwame Nkrumah: 1900–1970)は、若さとカリスマ性で一般大衆の心を掴み、1957年、政治の表舞台に登場してからわずか10年でガーナ(英領黄金海岸)を独立へと導いた。このガーナの独立を皮切りに、58年にはギニアが、そして60年には仏領アフリカ植民地を中心に一気に17カ国が政治的独立を果たすことになる。この年は「アフリカの年」といわれ、世界は「ブラックアフリカ」の新興国の登場に沸きたった。しかし、衆知の通り、独立半世紀を迎えた現在、中国やインド、ブラジルなどの新興国の経済発展とは対照的に、サハラ以南アフリカ地域の多くは、一部改善の兆候がみられるものの、一日1.25ドル以下で暮らす「極度の貧困」状況にいる人々が依然として全体のおよそ半分を占めるなど、開発の諸指標において他地域に取り残されている状況にある。なぜアフリカだけが取り残されたのか。本報告では、サハラ以南アフリカの政治的独立の先陣をきったガーナの独立期(1950年代から60年代半ば)を考察対象とし、同時期のガーナ政権の経済政策とその影響を概観した上で、独立時の「つまづき」の原因を再検討したい。
【第3報告】
眞城百華(津田塾大学)「エチオピアにおける「脱植民地化」と経済成長に関する一考察」
本報告は、エチオピアにおける「脱植民地化」と経済成長について、1941年から74年までを射程に検討することを主眼としている。その中で特に注目するのが、エチオピアとイギリスの関係である。イギリスはイタリア掃討ならびにエチオピア帝国の再建に最も深く関与したが、その後イタリア植民地の処理を巡る問題から両国関係は悪化する。エチオピアの「脱植民地化」は単にイタリア支配からの脱却としてとらえることはできず、イタリア支配の清算に関与したイギリスと、イギリスとエチオピアの関係悪化を受けてエチオピアと関係を強化したアメリカの台頭という一連の流れの中で理解する必要がある。
帝政期のエチオピアの外交関係において1941年から50年前後までイギリスが最も影響力が強く、その後1950年代からアメリカ、また冷戦の影響が深まると評価されてきた。他方、エチオピアの経済政策や開発にむけた諸外国の経済支援に注目すると、イギリスからアメリカへのシフトは1945年前後にはすでに生じていたと考えられる。エチオピアの独立回復とエチオピア帝国の基盤強化に深く関与しながら、エチオピアとの関係悪化、アメリカの台頭をイギリスがどのようにとらえていたのかについて考察したい。エチオピア政府に雇用される外国人専門家、経済支援の動向、通商にかかわる条約の締結などを焦点にイギリスの影響力の減退とアメリカの台頭を捉え直す。また、こうした対外関係や諸外国による経済支援をうけた帝政期のエチオピア経済についても考察の対象としたい。
【第4報告】
山口育人(帝京短期大学)「第二次世界大戦後の国際通貨体制の展開とスターリングポンド」
本報告では、1960年代を中心に第二次世界大戦終結から1970年代初頭(1972年の変動相場移行をもってスターリングの国際通貨としての役割は事実上、消滅したとされる)にかけての時期を議論の対象とする。検討する内容は、大戦後の世界経済(通貨)構造とその展開においてスターリングが果たした役割と、イギリス歴代政権のスターリング政策の概観である。そのうえで戦後イギリスのスターリング運営が、(旧)植民地を中心とする発展途上国への援助政策、ひいてはイギリス帝国(コモンウェルス諸国・植民地)関係の展開とどのように関係したのかいくつか分析の切り口を示したい。
結論としては、スターリング(システム)が、イギリス帝国という領域的まとまりにおいての関係・支配の要素であったと同時に、グローバルな制度のひとつであるという二つの性格を持っていたことを示したい。そして、戦後国際通貨制度においてスターリングの果たした役割やイギリスのスターリング政策は、第二次世界大戦後の世界構造の展開に沿うかたちで、それら二つの性格が相互にバランスを変化させながら現れたものとして理解しなければならないことを確認したい。
【第5報告】
木谷名都子(名古屋市立大学)「1930年代における日英印通商関係——イギリスと日本の間でインドはどう対応したか」
本報告の目的は、アフリカ諸国の脱植民地化過程と経済成長との因果関係の具体的な考察に際し、アジア史からの比較史的視点を提供することである。すなわち、アジアにおいてアフリカと同様に過去に植民地支配を受けていたインドに注目し、インドの脱植民地化と経済成長過程の因果関係を再検討することである。その検討作業の一環として本報告では、インド独立直前の時期に当たる1930年代を考察対象時期とする。1930年代のインドでは「インド人化」が進み、資本家も政治的影響力を増したとみなされている。また近年、アジア史において1930年代という時代を再検討する際、経済的支配と政治的抵抗という二項対立的な文脈で考察するのではなく、アジア側の積極的な経済的対応が評価されている。世界システムにおける中心と周辺との「相互依存」あるいは「相互補完」関係、アジア諸地域間の構造連関が強調されている。ならばインドの経済的脱植民地化についても、英印二国間関係の文脈でとらえるのではなく、インドとイギリス帝国との関係、そして帝国域外国との関係という重層的な枠組みで再考する必要があろう。
そこで本報告では、1930年代に英印間・日印間でそれぞれ開催された英印通商交渉・日印会商を事例として、これらの交渉における関税問題やインド第一次産品輸出問題をめぐるインド側の対応に焦点を当て、当時のインドが対英通商関係および対日通商関係をどのようにとらえ、維持しようとしていたかを、イギリス政府に対するインド政庁の相対的独自性および、インド政庁によるインド内の諸利害集団への対応にも着目しながら考察する。そして、インド独立直前の時期にあたる1930年代という時代がインドの脱植民地化の経済的側面においてもつ意味を、国際経済史的観点から再検討したい。
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