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近世イギリス史研究会例会プログラム

長く事務局を担当してくださっている方からのメールから、今年度の研究会例会について引用します。興味関心のある方はどうぞ。

たしか以前には参加の条件として、“自称・他称を問わず、「若手」であること”があったような \(^^:;)...


2011年度 第20回近世イギリス史研究会例会プログラム

日時:2011年10月8日(土)、9日(日)
会場:立教大学池袋キャンパス 4号館別棟1階4152教室
http://www.rikkyo.ac.jp/access/

※会場は構内のやや奥まった場所にあり、キャンパス入口の案内図に記載されておりませんので、下記(p.4)の案内図をご参照ください。なお、当日は大学院入試実施のため、入構に一部制限があるかもしれません。ご留意ください。


第1日目 10月8日(土)
14:00~17:15                   ※15:30頃より小休憩の予定
   合評会:仲丸英起氏『名誉としての議席―近世イングランドの議会と統治構造』
       (慶応義塾大学出版会 2011年4月刊)
   コメンテータ:青木康氏(立教大学)、井内太郎氏(広島大学)

17:15~17:30 総会・事務連絡

18:00~ 懇親会(会場周辺を予定)

第2日目 10月9日(日)
10:30~12:00
   個別報告1: 山本浩司氏(エジンバラ大学人文科学高等研究所)
    「市民戦争期イングランドにおける「脱プロジェクター」と「改革」
     ――転換期の改革運動失敗についての一考察」

12:00~13:30 昼休憩

13:30~15:00
   個別報告2: 穴井佑氏(明治大学大学院)
    「1630年代イングランドの安息日論争における異端の意義に関する一考察
     ――土曜安息日厳守主義者テオフィラス・ブレイボーンを中心に」

15:30 終了予定

個別報告の要旨・参考資料につきましては、下記および近世イギリス史研究会HPをご覧ください。
http://www.geocities.jp/kinseishiken/

報告要旨(2日目)

個別報告1:
市民戦争期イングランドにおける「脱プロジェクター」と「改革」
転換期の改革運動失敗についての一考察
山本浩司氏(エジンバラ大学人文科学高等研究所)

 市民戦争が起こった1640年代のイングランド―そこには、激動の時代を、知識、政治、宗教、経済を改革するチャンスと捉えて改革運動に身を投じる人々がいた。プロシア移民のサミュエル・ハートリブが主導したいわゆる「ハートリブ・サークル」である。錬金術から、養蜂や林業、国教会、税制の改革まで、その多岐にわたる野心的活動はチャールズ・ウェブスターをはじめ多くの研究者の注目を集めてきた。しかしながら、なぜ改革の試みが総体として失敗したかという問題についての議論は深まっておらず、議会からの関心とコミットメントの欠如などの外部的要因が指摘されるに留まっている。本報告の目的は、サークルの最重要課題だった「有用な知識」(useful knowledge)の改良と伝播に着目することで、 改革活動が空中分解した内在的要因を明らかにすることにある。
そこで注目したいのが、独占的特許などの濫用を通して私腹を肥やしたチャールズ一世下の「プロジェクター」から距離を置きつつ「改革」を目指すという市民戦争当時の風潮である。「脱プロジェクター」と「改革」の二重のスローガンには多くが同調し、「共通項」として活動の気運を高めた。しかしどのように特許濫用から差別化を図るか、また誰が「改革」を推進するか、少数精鋭なのか幅広い層を巻き込んでいくのかについてはサークル内で議論が深まらなかった。従って改革運動は具体的行動の指針を示すことが出来ず、矛盾する戦略と方向性を抱えたまま尻すぼみになっていったのだった。

 本報告は Historical Journal 2012年6月号に発表予定の拙稿(※)をベースにしているが、そこでは正面から議論されていない改革運動「失敗」の問題に踏み込んで考察するのがここでの課題である。激動の時代に人々はどのように結束をはかろうとし、何に失敗したのか。過去から学ぶのが歴史学の果たすべき役割の一つであるのだとしたら、この近世イギリスのエピソードから、ポスト3・11を生きる我々にとっての教訓を引き出すことは出来ないか。厳密な史料分析に基づいた研究が現代に訴えかけるものはないのか。ハートリブ・サークルについての各論と共に、人文科学の今日的役割についても考えてみたい。


個別報告2:
1630年代イングランドの安息日論争における異端の意義に関する一考察
土曜安息日厳守主義者テオフィラス・ブレイボーンを中心に
穴井佑氏(明治大学大学院)

 本報告では、ロード主義による印刷・出版統制が働いていた1630-40年代の安息日論争において、異端を語ることが持った意味を、土曜安息日厳守主義を主張したテオフィラス・ブレイボーンに対する当時の人々の言及に触れながら考察する。

 ブレイボーンがさかんに語られた1630年代は、大主教ウィリアム・ロードが印刷や出版を統制していた時期である。そのため、国王やロードらが提示する主日のあり方や安息日論に不満を抱く者は、自らの見解を印刷物としてではなくマニュスクリプトの状態のままで流通を図るか、外国での出版や秘密出版という非合法な手段に頼るしかなかった。とはいえ、いかなる手段を用いていたとしても、さかんに議論の応酬がなされていたことが各書物の内容から伺える。そして、こうした議論のなかで立場の異なるさまざまな人びとからしばしば語られたのが、ブレイボーンという安息日論争における異端者だったのである。

 ブレイボーンは、「ユダヤ教化のトラスク」として知られたジョン・トラスク同様に、彼の実際の主義や主張を置き去りにして、安息日に関する異端者として表象されていった人物であった。彼らは、1630年代の安息日論争において、「正統」的な見解の確立をめぐって対立する人びとから、その存在が構築された異端者だったのである。本報告の目的は、こうした「正統」説をめぐる激しい論争のなかで、共通して批判の対象とすることのできる異端者という存在こそが、対立のなかから協調点や議論の落とし所を模索していくうえで重要な共通言語となっていたことを示すことである。

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