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悲しみ、怒り、憤る

2月になって、節分、立春とすぎまして、旧暦でも新年をむかえました。いつまでも「芳春凱喜」ではないわな、と思いましたので、個人的すぎてしょうもないことですが更新します。

近ごろのさまざまなできごとにたいして、悲しみ、怒り、憤りました。このうち、自分にとってのきわめつけは入試の不平等です。第三者委員会に指摘されながらも「ばっくれている」(あえて、俗語的な表現をします)大学にたいしては、ひらきなおりとも、業界の閉鎖性とも、そうした学部の特殊性とも勘ぐってしまいました。ただし、逃げ得には絶対になりません。「逃げるは恥だが役に立つ」でもないのは明白です。再生は組織として情報をつまびらかにし、社会の判断をあおぐことによってのみ、達成されます。

アタシはまだ社会なるものを信じています。先年に同様の事案があきらかにされたところは、当年の志願者は減らしたものの、そのつぎの年からは回復したと聞きました。真摯な反省があれば、のことでしょう。ただし、受験したい者はどのようであっても受験するとか、志願者数は隔年現象であらわれるとか、そうした見方も否定はしません。

40歳代の前半は入試実施・運営の業務に教員の側からたずさわっていました。公平・公正の点で危うくなりかけたことがなかった、とは口が裂けてもいえません。コピー機の故障のために問題のつくりなおしをしたこともありましたし、授業テキストと出題典拠の総ざらえ点検をしたこともありました。しかしながら、さいわいにして地獄(墓場じゃないよ)までもってゆく案件には遭遇せず、それは何より適切にして堅実な判断をしてくださる方々に恵まれていたからでした。たとえば、コピー機の故障について○○の可能性はほとんどありません、といわれて安心し、報告はしましたが、具体的な対応をせずにそのまま進行させようとしたのをきっぱりと押しとどめてくださったのは、当時のGB長でした。

まず、執行部が変わるべきです。慣習はうけつがれ、内部の常識と化します。常識は内部からでは疑われません。あたらしい執行部が外部にさらされてあたらしい常識をつくってほしい。(ほんとうはあたらしくもないけれどね。)

ああ、更新だけを目的としたしょうもない記事をつくってしまった。悲しみ、怒り、憤るのは自分にたいしてかいな orz

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