母のお見送りをしました
わたくしごとです。本日に葬儀、出棺、火葬をすませ、母のお見送りがひとまずおわりました。
母は1月下旬に自宅で身体の不調をうったえたとのことです。すぐに近所のかかりつけの医院を受診したところ、今日にでも入院しなさい、という診断をうけ、5年前に股関節を人工関節にする手術をうけた病院に1月27日に入ると、その前日に妹から連絡をもらいました。アタシだけでなく、「年齢を考えるといちおうの覚悟も必要です」と医師から告げられた妹も、おそらくは本人さえも、いつかは退院して自宅にもどってくることを前提にしていたちがいありません。
COVID-19の感染防止のため、入院先では家族でさえ面会することはできず、看護師さん、ナースセンタを介しての荷物のやりとり、伝言がせいぜいのところでした。電話をかけて妹からようすを聞くたびに、食べることができていないとか、何もしないで寝ているだけとか、点滴で栄養をとっているだけとか、何かがちがうような、漠たる不安がひろがって2月をすごします。「どうしている」とたずねると「低いところで安定」とか、どうにもしようのない無力感がただよう状況でした。
「もう、よくなることはない」と診断され、リハビリというよりは療養をつづけながら終末期をむかえるための転院先をさがすことになったのが2月下旬です。アレの繁忙期にやばいかなでしたが、母はがんばってくれました。転院先のきまったのが2月末、転院の期日は3月1日、妹と母にとって義妹にあたる叔母がつきそってくれて、移動する車内と移った先の病室ではひさしぶりにことばをかわしたそうです。富士山のに見える部屋に入り、晴れ間を楽しみにしていたともあとか聞きました。
転院した翌日、3月2日の早朝5時41分、母は力尽きました。
妹から6時すこし前に電話をもらい、すぐにも実家にもどるつもりでした。でも、いろいろな連絡や準備、確認をしているうちに、結局のところ、到着した時刻は10時くらいでした。妹が葬儀業者をすでに手配してくれていましたし、叔母が近所の方々の相手をしてくれていました。すでにあれこれのことは進行中でしたから、あまり出しゃばることはありません。縁側のある、実家でいちばん大きな部屋に横たえられた母の遺体をゆっくりと拝めました。ふだんは化粧をまったくしなかったですが、唇にうっすらと紅をひかれて、まるで眠っているかのようでした。声をかけたらおきてくるのではないかとは、親族も、近所の方々も、おつきあいのあった方々も、同様に感じたことであったようです。
じつは父の命日を2週間後にひかえていました。21年前の3月の冷たい雨の日のことです。自宅で急に倒れた父を、今回の母が1か月ほどいた病院で看取りました。残念ながら母の死に目には遭えませんでした。実家に住んでいた/実家で生まれた祖父母、父、叔父はみなが先に逝っています。最後まで残って十分にみなさんの弔いにつとめた母を、どうかあたたかくむかえてあげてください。
かあさん、よくがんばりました。ありがとう。
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