かなりの遅ればせながら、初回から見つづけた番組『JIN—仁—』最終回について記しておこうと思います。最大の謎と思えた“ホルマリン・ベイビ”はまったく解き明かされなかったことをはじめとする、最終回の数々の肩すかしには、すでにネット上にもたくさんの反応を確認できることでしょう。中途半端なおわり方をしたこと、主要な登場人物のだれも死ななかったこと、“ホルマリン・ベイビ”が登場し、消えていた頭痛がよみがえったラストシーンなどから、映画化を予想する声も小さくありません。映画があれば、それはそれ、観たいですけれど、とりあえずドラマは決着をつけたものとアタシはうけとめます。
尚さんいわく、「原作のコミックもおわってないものをテレビでやるから、ぐっちゃくちゃになっちゃうのよ。ノダメ(『のだめカンタービレ』)もそうだったけど、実写化するのにも無理があるよ」。
なるほど、実写化のぜひはともかくとして、たしかに、コミックの原作がおわっていない、あるいはおわり方を迷っている、おわり方が見えない状況で、ドラマが勝手にエンディングをつくるのには仁義を欠く側面があるのかもしれません。原作の展開する余地を狭めてしまうかもしれないやり方は、純粋な原作ファン(というのがいるかどうかは別にして)にしてみれば回避してほしいことでしょう。ただし、原作者もまたドラマ化にOKを出しているはずですから、ドラマはドラマなりのおわり方があってもかまわないようにも思えます。コミックとテレビドラマではありませんが、あの『ヤマト』でさえ、映画版の2とテレビ版の2は結末がちがっているのですから。
※個人的には、『ヤマト』は映画版の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のほうが好きです。白色彗星帝国の超巨大戦艦にむかう最後の場面には、極楽浄土へ旅立ってゆくようなイメージがあります。
アタシが最終回に思ったことは、テーマの裏返しです。以前の投稿に記しましたように、人間にとって死は避けられぬものとして語られ、そうでありながら淡々としてそれをうけとめられる人びとを描いているところにひかれ、涙してきました。しかし、最終回では、内野聖陽さんの龍馬も、中谷美紀さんの野風も、大沢たかおさんの仁も、生にむかっていたように感じたです。だれも死ななかった、つまり、今回は未了の「生」をテーマにしたのではないでしょうか。
また、野風さんのセリフが印象的な回でもありました。
龍馬にむかって、
「見事に直していただきんした。これ以上 望んでは、罰が当たりんす。」
ときっぱりと語り、また、仁友堂を去るとき、
「これからはおのれ足で、いきたいところにいくでありんす。そこで誰かと出会い、誰かに慕い慕われ、誰よりも幸せになるでありんす。南方先生の手で、生まれ変わらせていただいたのでありんすから。南方先生、ほんに、ほんにありがとうござりんした。」
と声をあげるところなど、見せ場でしたねぇ。
野風さんの笑顔は、涙をともないながらもとても美しい。いたずらっ子のようなあかんべーもすてきな別れ方だったと思います。生まれ変わったことへの笑顔、彼女を救うことができたという涙、「一歩一歩進むしかない」という決意、みな、未来へむかって開かれていたようでした。とりわけ、大沢さんの仁は、ドラマで設定された現代にのこしてきた恋人(象徴的に名前は「友永未来」=演じる女優さんとおなじ音であり、「みらい」とも読める漢字である)から「解放」されたと語ります。これは、タイムスリップした先の江戸が現在となり、もとの現代が過去になり、そして、現在をうけいれた瞬間だったのではないでしょうか。死と生の逆転や過去と未来の逆転を見せてくれたことが、それまでの回を観てきた者にとって肩すかしと感じることにつながったのではないかな。
続編があろうとなかろうと、アタシは充分に堪能できましたよ。
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